命を委ねる不安

読書

明日の検査結果を待つ。心臓の鼓動はだんだん速くなるのに、時間は遅く重く進んでいく。何度深呼吸をしても、肺の奥に溜まった霧は晴れない。まるで絶叫系アトラクションの待ち時間のような苦痛だ。全然違うと思われるかもしれないが、私にとって絶叫系はそれだけ昔から苦手だった。けれど、大切なあの人はそれを好み、場を楽しみ、時間そのものを輝かせる魅力を持っていた。もっと一緒に乗ってあげられたら、どんなに幸せだっただろう。そう思うたびに、深い後悔が胸に残っている。なぜ好きな人は乗れるのだろう。

三半規管が弱いわけではない。小学生の頃は体操教室にも通い、回転すること自体に恐怖心はなかった。先日も久しぶりにマットで回ってみたが、身体はまだ覚えていた。だから私が怖いのは「回ること」ではなく、「自分じゃない誰かに命を握られること」なのだと思う。移動手段も車を好むのはそのためだ。知らない誰かの運転が怖い。

いつもの物語の比喩ではない。そう思い始めたのは、尼崎JRの凄惨な事故を目にして以来だと思う。あの日、制御を失った列車が住宅に突っ込み、多くの命が奪われた。僕は部活で、同じ路線の電車に乗っていた。もし事故の時間が少しでもずれていたら。乗客はただ座席に身を委ねていただけなのに、突然未来を奪われた。その理不尽さは、私の心に深く刻まれた。だからこそ、車に乗れる年齢になったらすぐに免許を取り、自分で操れるものなら操ろうと決めた。空以外は。

これまで両親のおかげで健康に生きてこられたので、手術の経験は一度もない。だが今回は、ほぼ間違いなく命を預けなければならない。医師を信用していないわけではない。ただ、怖いのだ。自分の意思ではどうにもできない状況に身を置くことが。

USJのアトラクションは絶叫系が多い。記憶に新しいのはドンキーコング。エリアに鳴り響くドラムよりも、私の心臓の鼓動は速く騒ぎ立っていた。けれど、苦手だった私も、大切な人が隣にいたからこそ乗ることができた。楽しいと思えた。乗れるアトラクションも増えていった。大切なあの人のおかげで。もし手術の恐怖も乗り越えられたら、あの人が乗れて自分は乗れなかったハリドリにも挑めるかもしれない。ただ同時に、隣には大切なあの人の影を見るだろう。その影は支えであり、同時に切なさでもある。

絶叫系に乗るときの胸のざわめきと、検査結果を待つ鼓動の速さは、私には同じものに思える。けれど、その不安を超えた先には「楽しむ力」や「信じる力」があるのかもしれない。あなたは、その「信じる力」をどこで見つけているだろう。その答えが、私の未来を照らすヒントになる。昨日の私も今日の私も、未来へ続く一歩として。

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