昼の美術館へ向かう道は、平日とは思えないほど人が多かった。
街全体がざわついていて、空気が少し熱を帯びているように感じた。
けれど、美術館のドアを閉めた途端、外の喧騒はふっと遠ざかった。
ひんやりとした空気、展示室に満ちる静けさ。
人混みからほんの数十メートル離れただけで、世界が変わる。
その静けさが、今日の作業に向き合う心を自然と整えてくれた。
到着してすぐ、急遽の予定変更についてお客様に改めてお詫びをした。
「大丈夫ですよ」と穏やかに返してくださったその一言が、
胸の緊張を少しだけほどいてくれた。
今日の仕事は、ネジの締め直しと金属部材の研磨仕上げ。
作品を支える“見える部分”を整える作業だ。
誰の目にも触れる場所だからこそ、手を抜けない。
作品の未来を支える責任が、静かな展示室の空気と一緒に胸に落ちてきた。
最初に目に入ったのは、錆止めとして塗られたオイルの燻みだった。
錆そのものは見られないものの、まずはこのオイルを拭き取るところから作業が始まる。高さ3メートルほどの端部から、脚立に登って丁寧に拭き取っていく。
拭き取りを終えたあと、次にビスの締め直しに取りかかった。
今日いちばん緊張した工程だった。
筋力の衰えもあったのか、最初は力をかけても微動だにせず、手のひらに汗が滲んだ。
力を入れすぎればビスが折れるし、弱すぎればドリルの刃がうまく食い込まない。
その中間の“ちょうどいい”を探りながら、呼吸を整えてドリルを当てた。
工場の方や美術館スタッフの視線が背中に張り付いて、「ミスできない」という思いが強くなる。
それでも作業を終えたとき、
「落ち着いてたやん」
と言われた一言が、胸の奥で小さな灯りになった。
ただ、どうしてもハマらない箇所が一つあった。
重量の負荷でテンションが強く、ビスが固着してしまっていたのだ。
「これはもう削るしかないな」
その判断には、経験豊富な人の知恵があった。
M4規格、穴径、ねじ山の保全。
持参した図面と寸法を確認しながら、グラインダーで慎重に削り進められていく。
今日、はっきりと気づいたことがある。
「全部できる」と思っていたのは、ただの思い上がりだった。
今回、自分が担当できたのはビス工程の一部と、研磨剤の塗布だけ。
でも、やれることは全力でやった。
金属に自分の姿が映るほど、丁寧に磨いた。
無理をして迷惑をかけるのは違う。
技術は段階を踏むものだし、
できないことを背負うのは、ただの自己満足だ。
商売は、安全性とクオリティがすべて。
「できることを確実にやる」
その積み重ねが信頼になる。
作業の合間には、ものづくりの話が自然と始まった。
研磨の三工程。粗・中・仕上げ。
一品物の難しさ。現場特有の緊張感。
そんな技術の話をしているときの先輩の声は、どこか楽しそうだった。
仕上げに、拭き取ったオイルを再度塗る。
銅は空気に触れた瞬間から劣化が始まる素材だ。
湿気が入り込めば結露が生まれ、そこから腐食が進む。
椿油を布に含ませ、金属の表面にゆっくりと伸ばしていく。
指先に伝わる“滑り”の変化が、作業の完了を教えてくれた。
最後に油紙で包んだ。
密閉度を高めるために空気を抜きながら包む作業は、
まるで星の贈り物を丁寧に包むような感覚だった。
「これで終わりでよろしいですか」
「はい、本当にありがとうございました」
短いやり取りの中に、今日の積み重ねがすっと収まっていく。
道具を片付けるときの工具の重さが腕に残る感覚。
車に積み込むと、外の空気が少し暖かく感じた。
朝から曇っていた空が、帰る頃には晴れ間を見せていた。
お客様も「いい天気ですね」と言ってくれて、少し自分の暖かさが伝わった気がした。
帰り道を案内していただき、最後に、改めて感謝の言葉をもらえた。
その一言が、今日のすべてを肯定してくれた。
美術館の静けさの中で、作品を支える“見える部分”に触れた一日だった。
自分にできることはまだ小さい。
でも、その小さな一歩を確実に積み重ねていけば、きっと未来につながる。
昨日の私も、今日の私も、未来へ繋げる記録として。
そして、この小さな積み重ねを、大切なあの人にそっと届けるために。


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