心が整っているかどうかを考えるとき、私はいつも一本の線を描く。
絵は「全体としての心」、線は「瞬間としての心」。そんなふうに考えている。
絵の構図や色や余白には、その人の世界観や今の状態がにじむ。
けれど線はもっと即興的で、呼吸や迷い、ためらい、決意、優しさ、悲しみ…
その瞬間の心拍がそのまま刻まれる。
美大出身でもない私が、今、美術館と関わる仕事をしているからこそ、なおさらそう思うのかもしれない。
線が震えていれば心が揺れているように見えるし、線が澄んでいれば心が澄んでいるようにも見える。
そんなことを考えていると、あの日の線を思い出す。
あの絵を描いていた頃、私の線はまったく震えていなかった。
ただ「届けたい」という思いだけで手が動き、迷いのない線が紙に残った。
あれは、人生の中でも特別な心拍だったのだと思う。
でも今はどうだろう。
仕事では毎日のように線を引く。図面を起こすとき、私はまず紙に向かう。
CADの正確さよりも、紙に残る「考えの呼吸」を信じているからだ。
紙の線には、迷いも、集中も、疲れも、決意も、すべてが薄く刻まれる。
だからこそ、最近その揺れを見るたびに、
自分の心がどれほど揺れているのかを思い知らされる。
サモおの線も、図面の線も、以前より不安定なのは自分でも分かる。
描けなくなったわけではない。
ただ、今の自分がそのまま出ているだけだ。

線を支える力そのものが、以前とは違うのもあるだろう。病にかかり、腕も細くなり、クレアチンの数値もかなり落ちた。
それでも描きたい気持ちは消えていない。筋トレを再開できる日を待ちながら、私は今の線と向き合っている。
揺れる線は弱さではなく、生きている証だと思う。
大切なあの人の幸せを願いながらも、もう一度という淡い願いを手放しきれず、
病と向き合い、未来を思い、それでも描きたいと願う心が、
線を震わせている。
線はきっと戻る。けれど、同じ線には戻らない。
あの頃の線はあの頃の私の心拍で、今の線は今の私の心拍だ。
未来の線は、未来の私の心拍になるだろう。
人とのつながりも同じだ。
触れた瞬間ごとに、少しずつ形を変えていく。
離れたと思っても、別の角度からまた重なり直すことがある。
けれど、それは決して「元に戻る」のではなく、
新しい心拍で描き直された、別の線として出会い直すだけだ。
だからこそ、過去を抱きしめすぎなくていいし、
未来を恐れすぎなくてもいい。
線は揺れながら続いていく。
その揺れこそが、生きている証になる。
どんな線でも、それは私の記録であり、想った証になる。
揺れながら、震えながら、それでも前へ進もうとする心とともに、
線は今も私の中で生きている。


コメント