飛べなかった命

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仕事の重圧、会えない辛さ、眠れない夜が続いている。病気への不安は何よりも心を締め付ける。営業回りの途中、赤信号や渋滞で車を停めると、心の奥に押し込めていた感情が一気に溢れ出す。走り続けている間は何とか誤魔化せても、止まった瞬間に押し寄せる波に抗えない。涙が溢れ、ハンドルを握りしめるほどの衝動に駆られる。なんで自分が、どうして自分が。明日の検査を思うと胸が重く、鬱に沈んでしまう。

ふと小学生の頃の記憶が蘇る。渡り廊下で瀕死だったコウモリを拾い、家に連れ帰ったこと。鍵っ子だった僕は何を与えればいいのか分からず、近所のおばさんに聞いた。ネットのない時代、人に聞くしかなかった。必死に看護を続けたが、次の朝には死んでしまった。供養をしながら、拾わなければ違う未来があったのではと後悔した。元気に飛べたかもしれない命を、自分の手で閉ざしてしまったのではないかと。

コウモリは幸せだったのだろうか。助けたい、救いたいという気持ちは純粋だったのに、知識や力のない者が差し伸べた手は迷惑だったのではないか。そんな思いが今も胸を締め付ける。だけど、孤独なまま死を迎えるのではなく、誰かに看取られ、供養までしてもらえた命は、きっと孤独ではなかった。そこに小さな幸せがあったと信じたい。僕も人生の終わりにはただ願う。
最期は一番大切な人に見守られたい。

当時はネットがなかった。だからこそ、人に尋ね、迷いながらも必死に手を伸ばした。その不確かさが、後悔を生み、記憶を深く刻んだ。今や情報収集はネットだけではない。人の声、本の言葉、体験の記録。それらも未来へ繋がる力になる。だからこそ、自分の病気のことをもっと知ろうと思う。知ることで怯えるのではなく、歩む力に変えていきたい。後悔も不安も抱えながら、それでも前を向いて生きていく。

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