夕食は、大根を柔らかく煮て出汁の餡をかけて食べた。 この時期の大根はやっぱり美味しい。 土の香りがふっと立ち、湯気でメガネが曇る。 塩分が気になるので、今日は昆布から丁寧に出汁を取った。 冬の台所はほとんど調理をしないせいか空気が冷たく、 お湯に揺られる大根をじっと眺めていると、 しんとした空気が少しだけ心を落ち着かせてくれた。
よく噛み、味わう。 あの人の食べ方を思い出しながら、 まるで隣にいるかのように感じてしまう瞬間がある。 外はきっとさらに冷え込んでいるだろう。 あの人は暖かくしているだろうか。 体調は大丈夫だろうか。 そんなことを思いながら、食卓の静寂をゆっくり飲み込んだ。
食事を終えてスマホを見る。 画面に変化はなかった。 光のない沈黙が、部屋の空気に溶けていく。 胸の奥に少しだけ冷たい気配が残るけれど、 その気持ちを無理に動かそうとは思わない。
これからも、ふとあの人を思い浮かべてしまうことはあると思う。
でも、それはあの人に何かを求めたいわけじゃなくて、
ただ自然に浮かぶだけの気配みたいなものだから、
どうか気にしないでいてほしい。
そして、これはわがままではなくて、
ただの正直な気持ちとして、
冬の着物姿は、いつか見られたらきっと綺麗だろうなとそっと思っている。
気持ちを整えるように、 僕はゆっくりと部屋の片付けを再開した。 肩を回して呼吸を整え、 古びた会社のダンボールを床に置く。 年末に掃除をしたはずなのに、部屋はまた散らかりかけている。 心の乱れがそのまま映っているようで、 その乱れを動きに変えていくように手を動かした。
夏服を一枚ずつ“選んで”入れていく。 ハンガーから外すときの軽い音。 ふっと夏の匂いが戻ってくる瞬間がある。 想い入れのある服は残したい。 未来の部屋で着る自分を想像しながら、 服を一枚ずつ選んでいく。
アライグマのキャラクターのシャツ。明るい照明の店先で、可愛いアライグマを見つけ立ち寄ったあの日。 アライグマの他にヘンテコなデザインもあって、 二人で笑い合ったことをよく覚えている。 あの人の表情は柔らかくほどけていて、 その愛らしさに胸が温かくなった。
羽織っても涼しいこのシャツ。 汗かきの自分には特にありがたい一着で、 中には白いTシャツを合わせるだけでよかった。 そのシンプルさがまた心地よくて、 夏の軽さをそのまま纏えるような服だった。
あの人の服もどこか似ていた。 余計な飾りのない、好きがそのままプリントされたようなスタイル。 横に並んで歩くだけで、 お互いの“好き”が自然に共有されていくような気がして、 その時間がとても嬉しかった。
穏やかな日も、風の強い日も、 あの人はその場の風景に自然に溶け込んでいた。 写真を撮ればどれも絵になって、 その横に自分がいることが少し誇らしく感じられた。
冬はアウターに隠れてしまうけれど、 夏は特に、あの人の“好き”が真っ直ぐ伝わってきた。 外に向かう足取りが軽くなるような、 そんな気持ちを覚えていた。
自分のその嬉しさが空に伝わっていたのか、 それともあの人の気持ちが空を明るくしていたのか。 思い返すと、あの日々の空はいつも機嫌がよかったように思う。 雲ひとつない青さも、夕暮れの柔らかな色も、 どれも二人の時間をそっと包んでくれていた。
夏服に触れていると、あの夏の温度がゆっくりと指先に戻ってくる。 太陽に照らされた布の、あの少しだけ熱を帯びた感触。 蝉の声、日差し、風。 胸の奥に沈んでいた記憶が、静かに浮かび上がっていく。
長いあいだ、この温度に触れるのが怖かった。 思い出すたびに胸が締めつけられる気がして、 そっと箱の奥にしまい込んでいたから。 でも今は、苦しさより温かさが少しだけ勝つ。 あの人と過ごした時間が、 ちゃんと“良いもの”として残っていると気づけるからだ。
昨日、あの人から届いた嬉しい言葉。 飾り気がなくて、控えめで、 でもその距離感があの人らしくて、 胸の奥にすっと落ちていった。
言葉を読んだあと、 胸の奥の冷たい気配がゆっくり溶けていくのを感じた。 確かに“つながっている”とわかるような、そんな自然な温度だった。
この服を新しい場所へ持っていくのか、 それとも箱の奥にそっとしまっておくのか。 答えはまだ出ていない。
新しい部屋の光、 朝の空気、 窓辺に掛けられたこの服。 そんな未来を想像してみる。
袖を通す日が来たら、 その日の空はきっと機嫌がいいだろう。 青空かもしれないし、 雲の切れ間から光が差す空かもしれない。
どんな未来でもいい。 この服が“過去”ではなく、 “これから”のどこかにそっと寄り添ってくれるなら。
過去を抱えたままでもいい。 温度を持ったままでもいい。 そのまま進めばいい。
そう思える夜だった。


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