繰り返す波に「同じ」はない

読書

窓の外では、しとしとと冷たい雨が降り続いている。今日も、心細くなるような寒さを肌に感じる一日だった。ただ、今の僕の心に浮かぶのは、自分自身のことよりもあの人のことだ。

あの人から、光はまだ届かない。どうか、無理をして体調を崩していなければいいけれど。繁忙期は少しは落ち着いたのだろうか。そんな心配が、次から次へと溢れてくる。

あの人のことを、まるで自分のことのように案じてしまうのは、おかしいことだろうか。いや、そんなことはない。だって、あの人は僕にとって、何にも代えがたい大切な人なのだから。僕が今の状態になってしまう、ずっと前から。

あの人は僕のことを、まるでもう一人の自分であるかのように、真剣に心配してくれていた。その温かな眼差しを、僕は今でもはっきりと覚えている。だからこそ、今、僕が同じようにあの人を想い、心配になるのは、ごく自然なことなのだと思う。

もし、あの人が助けて欲しいと願うときがあるのなら、僕はいつでも助けに行きたい。そのためには、僕自身が強く、健やかでなければならない。だから今日も、僕は心を整えるために本を開き、守れる自分であるために体を鍛える。

ふと、今日手にとった本の中にあった、挨拶という言葉の成り立ちが今の心に重なった。禅語としての挨拶は、単なる社交辞令ではない。

挨(あい)は、相手の心に押し入る、心を寄せること。拶(さつ)は、その相手にどこまでも近づき、迫ること。つまり挨拶とは、相手の心に真摯に向き合うことを指すのだという。

今、僕がこうしてあの人を想い、その無事を願うことは、一つの挨拶なのかもしれない。届くかどうかわからない言葉を、雨空の向こう側にいるあの人の心へそっと寄せる。そんな、ささやかな愛の挨拶だ。

そして、この挨拶の精神は、僕が毎日繰り返している習慣にも通じている。例えば、毎日の筋トレ。

以前の僕なら、同じことの繰り返しで飽きたなと、スヌーピーのように、いつもおんなじだ、とため息をついていたかもしれない。けれど、禅の教えはこう告げている。

繰り返す波が教えるのは、ただの一度も本当の繰り返しは無いということ。今日の呼吸、今日の筋肉の張り。それらは、昨日とは決定的に違う、今日だけの命の輝きだということ。

ブログを書くことも、全く同じだ。画面に向かって、僕の内側にある言葉を紡ぎ出す。今日感じた不安や、今日あの人を想った切なさは、今日この瞬間にしかない、二度と戻らない貴重な時間だ。

昨日の僕に、さよなら。今日の僕に、こんにちは。そうやって言葉を置くことで、僕は自分自身の心と、温かな交流を続けている。

あの人から光が届かない雨の日。けれど、僕は絶望しているわけではない。ページをめくる指先の冷たさも、すべては自分も含めて守れる自分になるための、大切な修行の一部だ。

僕が僕自身に真摯に向き合い、健やかであり続けることが、巡り巡ってあの人への一番の挨拶になると信じているから。

明日もきっと、新しい自分との出会いが待っている。どんな一日になっても、僕はまた、こんにちは、と新しい自分を迎え入れる準備をしておこうと思う。

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